2018年5月31日木曜日

【幼稚園教諭】双極性障害の鬱状態を初体験【地獄】

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パニック障害と診断された発作から2年。
大きな発作は繰り返すことなく、
小さな発作には自分で対応することができ
順調に過ごすことができました。


2012年の秋、
台風の近づく天気の悪い日でした。

朝、いつも通りの時間に目が覚めました。
うーんと、正確に言うと目は覚めていますが
目を開けることをなぜか戸惑います。
そして、すごくすごく嫌な気分です。
胸が縮こまるような、
息苦しくなるような。

まるで、2年前に起きたパニック障害の発作のような、
そんな嫌な辛さを感じました。

正直、ヤバいと焦りました。
あの時の発作にはなりたくない。
怖くなりました。
でも、あの時と違うのは、
場所が家だということ。


そして誰もいない家の寝室で起きているということ。

焦りました。
焦れば焦るほど、汗が出て
手が震え、呼吸は恐怖で浅く早くなりました。
吐き気も強く、
振り払いたい気持ちで
「あー!!!!!!!!!」
と叫びました。
でも、それっきり。
大きな行動はそれぐらい。


そして、もう一つ、この日の特徴がありました。
ものすごく体がだるく重たく
まるで鉛のように動きたくないのです。


這って、自分のカバンをあさります。
いつも通勤に持っている頓服薬を飲みます。


薬が効いてくるのか、
心の安心の作用なのか、
次第に呼吸が落ち着きました。
呼吸が落ち着くと同時に、
様々な症状も落ち着きました。
体が重たいこと以外は。


そして、泣きました。
分からないけれど悲しくて泣きました。
分からないけれど背中の背骨のあたりが重く
顔の筋肉も重たく
とにかく自分は役に立たない。
発作も含めて、
これから使い物にならない人間だ。
そう自分を責めました。


今思うと全く無意味な思考回路ですが、
発作で疲れていたこと、
一人の自分が無償に寂しかったこと、
何だか分からないけど感情が爆発したこと、
体が異常に重たかったこと、
そんなことが自分をネガティブにさせていました。


呼吸も落ち着いたので、
勤務先に電話を掛けます。

理由は・・・
伝えられませんでした。
体調不良とだけ伝え、その日は寝ました。

実際には寝てなくて、
外の子どもの声、
車の音、
飛行機の音、
風の音、
雨の音、
すべての音を真っ暗な部屋の中で横になって聞いていました。

ご飯は食べませんでした。
今が昼なのか、夜なのか、
分かってはいたけど分かりたくなかった。

トイレにはひとりで行けました。
水も飲みました。

でもそれだけ。
仕事のことが頭に浮かびましたが、
そのたびに罪悪感で胸が痛く、
都合が悪いので考えないようにしました。

明日が来ない方法、
自分が消える方法、
そんなことを考えました。



昨日まで、
パワフルに働いていた人間が
次の日の朝を迎えると
真っ暗な部屋で
一日中何もしないで
ネガティブなことを考える。

その変化に自分自身も耐えられず、
頭がおかしくなりそうでした。


ただ、この時には双極性障害(躁うつ病)という
病名を知らなかったので、

(この時は知っていても対応できなかったと思いますが・・・)

自分自身に何が起きていて、
次に何が起こるのか、
想像がつきませんでした。

それが大きな不安の一つでもありました。

2018年5月30日水曜日

双極性障害の幼稚園教諭が「躁」の状態になったら【双極性障害】

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復職から1ヶ月以降はもう元気!元気!
自分でもパワフルだなーと思いながら仕事をしてた。

この時は「双極性障害(躁うつ病)」とは診断されていないわけだけど、
今考えるとしっかり



の状態が現れていた。

私の躁状態はこんな感じでした。

【仕事面】
・常に過敏に反応し、園の電話にはいち早く出た。(園長からよく褒められた)
・教材作りや制作活動は夜中まで続けていてもなんともなかった。
 (出来栄えを同僚に褒められた)
・職員会議ではよく発言をし、
 特に修正点や改善点は思いついたら言わずにいられなかった。
 (ちょっぴり同僚からは煙たがられた)
・保護者会や園児への声掛けの場面で早口が多くなった。
・仲間の指示や行事のサポートで勝手な解釈をして、余計なことをやった。
・納得のいかないことは家で一日中考え、どうしたら相手をねじ伏せることができるか
 徹底的に考えてた。そして実行した。

【家庭面】
・ネットでの衝動買いが多くなり、
 1ヶ月のカード支払いが50万円に達することもあった。
・仕事を優先させるため、洗濯物や料理などの家事を行わなくなった。
・イライラが多くなり、ヒステリックで理不尽な怒り方が増えた。
・眠る時間が3時間程度になった。
・リラックスしていることに罪悪感があり、常に焦燥感に駆られた。

そして、薬を飲んだら何となく余計にバタバタした。

パニック障害後の生活はこんな感じでした。
ただ、大きく他人に迷惑をかける場面がありがたいことに少なく
周囲の理解も(診断はされてないけど、変わった子として見てもらえていたので)あり
仕事を順調にこなして行けていたのだと思います。

保護者や園児からも
「マシンガントーク」な先生とみられてはいましたが、
やることはやっていたので、クレームもなく順調にクラス運営ができていました。



そして、2年後の2012年、
いよいよ助走期間が終わり、
一気に崖から転落することになります。

いわゆる長い「鬱」状態に入ります。

2018年5月29日火曜日

双極性障害(躁うつ病)と診断される機会を自ら逃すΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン

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復職から3週間、
あっという間に時間が過ぎた。

その間には、お泊り会があり、
お遊戯会があり、
保護者トラブルや、
子どものけがもあった。

でも、それは幼稚園のごくごく日常で
あまり特別な出来事でもない。

それでも肉体的には結構疲れた。
でも、頭はフル回転。
一度、動き出すと止まらない。
そんな風にこの時の私は見られていたらしい。

保護者会でもマシンガントーク。
面白い遊具を思いつくと
泊まり込む勢いで熱中して作り続けた。

園長先生や同僚も変わった人だと思いながら
でも元気にやっているので、
とりあえずそのままにしてくれていた。

そして、復職から4週間目。
定期の精神科への通院があった。
復職してからの様子を伝え今後について考える。
そんな通院だった。

もう、大丈夫だと思っていた私は
特に何かを意識するわけでもなく
一人で出かけることにした。

ちなみに、こうやって定期で幼稚園を空けるのはつらい。
何か行事があろうと、他の先生にお願いしなくてはならない。
そして、いつも謝らなくちゃならない。
「今日通院で迷惑かけます。ごめんなさい。お願いします。」
幼稚園の職員は人数が多いので、
誰に挨拶したかもわからないときがある。

だからこういう日は、できるだけタイミングを見計らって
出会う人が少ない状態で幼稚園を後にした。
昔から、こういうことが苦手で、負担だった。



久々に訪れた病院。
働いているときには、昼間に世に出ることが少ないので、
凄く新鮮な気分になる。
ちなみに、あれから電車にも問題なく乗れている。
薬も飲んでるし、今日は特に何もないかな。

気楽に診察に臨んだ。

診察では、復職中の様子を聞いてくれた。
生活のこと、仕事のこと、人間関係のこと。

その中で、先生がパソコンに熱心に打ち込む瞬間が何回かあった。
1つは教材作りに熱中して、徹夜しそうな勢いで作業を続けていたこと。
2つはカバンを衝動的に買ったこと。
3つは4週間前と気分が飛躍的に変わり、
今は何でもできそうな自信にあふれていること。

そして、先生はそれを受けてこういった。
「今までに、こういったことありましたか?」
と聞いた。

私は、今まで教材作りに熱中したり、お金を使いすぎたりしたことはあると答えた。

でもお医者さんはもっと聞いた。
「いままで、元気な時とそうでないときを繰り返していませんか?」

・・・

何を意図しているのか分からず、
とりあえず、
「ないと思います」
と答えた。

この時に
「あ~、そういえば」
と答えておけば、
早く苦しみから脱せていたのかもしれない。

でも、その時にはこう答え、
その日は薬は変わらず、
診断名(パニック障害)や通院ペースも変わらなかった。

そして、絶好調の期間は続く。
まるで崖から落ちる前の助走のように。

2018年5月27日日曜日

順調な復職1日目。でも、元気すぎて買い物の衝動が抑えられない。【双極性障害の兆候】

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パニック障害と診断されてから2週間、
幼稚園を病気休暇で休み、
久々に勤務復帰です。

園長先生の配慮のもと、
本日は有休を使い、
1時間遅れて出勤、
午後は帰るかたちの勤務です。

まるで、子どもたちが初めて園に来る時のならしのように
こわごわとした職場復帰となりました。


当初心配されていた電車は嘘のように問題なし、
幼稚園に入るのも躊躇なく
逆にやるぞというやる気にあふれていました。

もうすでに幼稚園の活動は始まっており
園庭にもたくさんの子どもたち。
すぐに私の姿に気づき
「おかえり」
「どこいってたの」
「お腹痛いの治った?」
と口々に話しかけてきます。

正直、大人と話す前に子どもと話せてよかった。
純粋な子どもたちと話せてよかった。
そして、休んじゃってごめんねって、
少しだけお話しできたことで
心にあった罪悪感を少し減らすことができた。

職員室にはほとんど先生はおらず、
園長と主任の先生と面談。
時間はかけず、
とにかく今は何かあったら教えてほしいと言われた。

そして、あとは流れ作業。
もういつもの感じ。

そう、ここが何となく
幼稚園や学校の
良いところでもあり悪いところでもある。

体調が良かろうが悪かろうが
やる仕事に差が付けられない。

でもこの時の私はやる気に満ちていたので
凄くスムーズに、そして
すこし今までの分を取り返そうと頑張った。
汗もかいたし、
午後は早めに帰ったけど
凄く充実していて
今までの生活が何だったのかと思った。

家出は眠剤を飲んだ。
安定剤も飲んだ。
でも正直私にはもう薬は必要ないんじゃないかと思った。
それくらい急速に体調が良くなった。
元気になった。
久々に買い物に行きたくなって、
気に入ったカバンを2個買った。
自分へのご褒美だった。

でも、ちょっと変。
今考えると変な行動だった。

2018年5月26日土曜日

パニック発作に立ち向かう!

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パニック発作から1週間。
2度目の通院。

初回のようなビビる感じはなく、
自然と中に入り、ソファーに座る。
何人か待っている人はいるけれど
視線を合わせることもなく、
無言の待合室。
静かなクラッシックだけが流れている。

時間きっかりに診察室へと通された。
いつもの柔和な笑顔の先生だ。
優しい語り口で
「お休み中はどうですか?」
と聞いてきた。

私は正直、先ほどの発作についてすぐに話をしたかったけれど、
仕事を休んだ数日間についての話を優先した。
体調は悪くないこと、
薬を飲むと吐き気があること、
仕事を休むことに罪悪感があること、

そして最後に、
先ほどの発作について話をした。

すると、すべてを「うんうん」と聞いていた先生が
きゅっと顔を引き締め、
話を始めた。

パニック障害の発作の中には
特定の場所というより、
雰囲気やストレスのかかり方によって
様々な場所で発作が起こることがあるとのこと。

今まで私はパニック障害は電車の中で起こるものだと思っていた。
しかし、広場恐怖という言葉があるようで
どんなところか分からない場所、狭い場所、
前に発作が起きた場所、など
本人なりに理由のある場所で発作が起こりやすいとのこと。

私の場合は電車に似た空間、エレベーターも苦手なのだろうという
そういう見立てをされていた。

そして、あまり放置をし過ぎると、
いろんな場所で発作が起きるようになる可能性があり、
日常生活に支障が出るとのこと。

私は、驚きより悲しい気持ちだった。
休めば治ると言われたのに、
永遠に治らない病気のように思えた。

先生には、お薬をしっかり飲むこと。
発作が起きそうになったら頓服薬を飲むこと。
カウンセリングの先生と訓練をする手があること。
体調は必ず良くなること。
現在も体調は上向きだということ。
来週仕事に復帰してみましょうということ。
が確認された。

実は休み中パニック障害について
インターネットや本で確認をした。
そして、意外とやっかいなことを知った。

でも、この日を境にやってやるというエネルギーがあふれてきた。
スイッチが入ったように、仕事へなぜか前向きになれた。

でも、実はこれは隠れた別の病気の病状だった・・・。


2018年5月25日金曜日

体は元気なのに、震えに発汗、呼吸の異常が止まらない【パニック障害】

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パニック障害と診断してから1週間。
ほとんど家の中で過ごした。
ダラダラしているのも申し訳ないので、
幼稚園教育の雑誌や新しい工作の考案をしていた。

普通なんだ。
私は普通。
家にいると何もかも普通。
だから余計に休んでいることに罪悪感。
母との会話が怖い。
母は怖くない。
母は私のことをどう思っているのだろう。
不憫だ、親不孝だと思ってるのだろうか。
いろいろと想像してしまう。


今日は2度目の通院だ。
母に付き添ってもらい通院をした。
今日は園長はいない。
ちょっぴりホッとする。

電車に乗ろうと思った。
でも、ちょっと不安でタクシーで移動した。
何でもなかった。

私は普通だ。

病院の時間より早く着いた。
少し近くの商業施設に行くことにした。
エレベーターに乗った。

起きた。

起きた。

手がしびれ、震えて、
汗が出るのが自分で分かった。
止められない。
自分で止められない。
焦った。
すると今度は呼吸が乱れた。
でも、エレベーターはすぐについた。

降りた。
汗が噴き出る。
母が呆然とする。
そして、大丈夫?と声をかける。
両手を膝につく。
まだ呼吸は荒い。
でも、この前のようにはならない感じがした。
その前に逃げられた感じ。

ベンチに座った。
母はこちらを向くが特にしゃべらない。
凄く心配しているのが分かる。

時間にして15分。

元に戻った。

でも

でも・・・

もし私がエレベーターに閉じ込められたら・・・

発狂して母を殺してしまうかもしれない。

それぐらいどうしようもない苦しさ。

誰かをつかみ、握りしめ
叩き、発狂する。
そんな感じ。

私はそんな人間になったのだ。
落胆した。

そして、商業施設はあきらめ
病院へ移動した。

階段を下りた。
母も階段を下りた。

つき合わせてごめんね。
本当に心が痛む私の行動。

こういうのを足手まといというのだ。

素直に私ってこの世にいらないと思った。

2018年5月23日水曜日

長期欠勤は辛い【有給の病気休暇】

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私は幼稚園教諭。
でも、一方で都道府県に雇われた公務員でもあった。

それぞれの地方自治地帯によって多少違うそうだが
1週間以上病気で休むことになると
基本的には病気休暇というのを取るらしい。

勤務して5年。
そんな休暇があることを初めて知った。

病気休暇は90日間。
休んだ日数によってボーナスに影響はあるが
月給には何の問題もなく、
いつもと同じようにお給料をいただけるらしい。

その時は単身だったから
正直お給料のありがたみも分からず働いていた。

まあ、それだけ安定したお金をいただいていたんだと思う。

ただ、いざお休みとなると、
やることがないことに気付く。

風邪をひいているわけでもなく、
骨折をしているわけではない。

ただ、怠くて、緊張している。
自律神経がおかしいのは何となくわかる。

朝ご飯を食べて、テレビ見て、
ワイドショーを見て、
昼ご飯を食べる。
テレビの再放送を見て、
夕方のニュースの特集を見て、
夕飯を食べて寝る。

感情がない。
いや、ある。
仕事を休んでいるという罪悪感は強くある。
だから、一歩も外には出られない。
ご近所さんは私が公務員の幼稚園教諭だって知ってる。
休んでるのにお給料もらっているなんて
ばれたくない。怖い。

家の中で過ごせば大丈夫。
夜に少しだけコンビニへ行こう。

働いていたときは、休みたいって思う。
でも、普通に仕事をしていた人間が
長いこと休むのは目立つし簡単じゃない。
そういう世の中なのだと思う。

とにかく、初めて経験した病気休暇は苦しかった。
涙が出た。
そして、家から出られなかった。

お医者さんには休むことが大切と言われた。
これって怠けてない?
誰かに確認したかった。
誰かに休んでいていいんだよって言って欲しかった。
でも聞けない。

そんなそんな苦しさ。
それが、仕事を休むということ。

2018年5月22日火曜日

抗うつ剤、SSRI、パキシル、結構つらい

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パニック障害と告げられ
処方されたお薬。

SSRIという薬。
抗うつ薬と呼ばれ
私はパキシルという薬を飲んだ。

詳しいことは未だによくわからない。
ただ、私のダメな脳のミスをカバーしてくれるお薬らしい。

それと、夜あまり眠れていなかったので
睡眠薬を出してくれた。

これはすごく助かった。
不安で不安で、
眠るとき、次の日のことを考えると吐きそうで
仕事を休んでいることへの罪悪感で
消えてしまいたくなる時に
効果は未だによくわからないけれど
お薬で眠ることができる安心感。

これは依存症?!って不安になるけど、
この時期もありがたく飲んでいた。

ただ、パキシルは始め、本当につらかった。
頭がくらくらして
船酔いとは違う気持ち悪さ。
頭はガンガンしないけど
ギューッと圧縮されるようなきつさがあった。

それがとれてきたのは1週間ほど。

薬って熱が出たとき、頭が痛いときくらいだったのに
普通の状態で飲む(普通じゃないんだけど)のは違和感があった。

でもパキシルのこの不快感で、
私は薬にコントロールされていることを悟った。

告げられた診察名はパニック障害。

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初診察は電車での過呼吸のことを中心に
家庭生活や仕事の話をした。

園長が隣にいたので
仕事のことについてはかなり遠慮してお話した。

その時、何度も今までに同じ経験はあった?と聞かれた。
初めてだと答えると先生はう~んと唸って
「パニック障害かな。」

意外と軽く、
リズムよく告げられた。

パニック障害。
精神疾患である。
あるきっかけにより、
体が過緊張になり、
その反動として呼吸や神経に異常をきたす。

ただし、様々な精神疾患やストレス症状と
完全な区別が難しいため
診断名は出すけれど、固執しないで生活してほしいと念を押された。

そして、少しお休みしようと言われた。
電車に乗ることに
今体が拒絶反応を示している。
そして、倒れたことを体が覚えていて
同じ場所や雰囲気に近づくと不安になったり
怖く感じたりしてまた同じ状況になることがある。
こういうのを予期不安というのだけど、
今、その予期不安に真正面から戦いを挑むと
心身ともに疲れちゃう。

お仕事もちょっと疲れてない?
お医者さんは突然聞いた。
ちょっぴり横目で園長を見ると笑顔だった。

だけど、私は知っている。
この笑顔は笑ってない。

そう、園長は単に心配をしているのではない。
職場の状況を伝え過ぎないように監視していた。

いや、そんなことないです。
そう答えたけれど本心ではない。
お医者さんも間には受けず、
2週間お休みして
少しお薬だすね。といった。

そして、1週間後、また様子を聞かせてねと言い診察は終わった。


園長は診察が終わると
診断書を受け取り、
ゆっくり休んでねと言って帰っていった。足早に。

私は一人会計を済ませると、
結局一人で帰れず、母に一緒に帰ってもらった。


パニック障害、予期不安。
知らない言葉が次々に襲う。
でも、それよりも何よりも
今の自分の状態が病気なんだということに

何だか安心した。

単なるおかしな人ではなく、

そういう病気があって
その病気が私をそうさせている。

だから休めば治る。

そういう希望が持てた。

だから、よくわからないけど、
薬飲んで、ゆっくり休もう。
そう思える自分が今思うと可愛いなと思う。

2018年5月21日月曜日

初めて行った町の精神科

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欠勤を続けた私は
人生で初めて精神科という
お医者さんを受診した。

隣には園長がおり、
初診の時には事前予約が必要だった。
園長が予約をしてくれ、
受付も園長がしてくれた。

その時、ちょっぴり違和感を感じた。
私が受診するのに
なんでこんなに懸命なの?って。
これものちに分かることがある。

初めての精神科。
私のイメージは
「あー、うー」とうなる知的障害の方
家から出られないような重度な精神疾患の方
が通院しているイメージだった。
いや、今は本当にそんな自分が糞だと思う。
でも、その時は想像もつかない場所で
どんな人が通うかなんて考えたこともなかった。

実際に扉を開けると、
柔らかな音楽がかかり、
綺麗なソファーがならんだ
ちょっとしたオシャレな空間だった。

そこに大人から子どもまで
思い思いのことをしながら
診察の順番を待っている。

ここにいる人たちに
どのような苦しみが病があるのか
見た目では全く分からない。

正直拍子抜けした。
精神科へ行くのだから、
いつも以上に苦しい顔をしないといけないと思った。
でも、ここで苦しい顔を続けたら逆に変な人だ。

園長先生といるだけで少し緊張するのに
さらに顔が引きつっていたのだろう。

空いているソファーに座る。
予約をしていたので、すぐに呼ばれた。
診察室に二人で入る。
そこにいたお医者さんは
メガネをかけた40代くらいの
優しそうなおじさんだった。

ただ、忙しそうで指示や動きはてきぱきとしていた。
このおじさんと私は3年程度お世話になることになる。

2018年5月18日金曜日

電車に乗れない、お店に入れない、家から出られない。

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翌日から何とか仕事を再開した。
電車に乗るときには、重苦しい胸のつかえることがあるが、
それを乗り切ってしまえば、
子どもたちの前で笑顔を作り最高の役者となって先生になる。

でも、それも長くは続かなかった。
担当のある園行事の朝、
突如として電車が怖くなり乗れなくった。
呼吸が浅くなり、しびれが起こる。
この前より速いペース。
嫌だ、もうなりたくない。

そんな恐怖から、体はドンドン縮こまる。
パンツが見えようがお構いなしにしゃがみ込む。

すると駅員さんが介抱してくれて数分で自分を取り戻す。
その日は、もう一度電車には乗らずタクシーで職場に向かった。
今思えば、タクシーには乗れた。

でも、今度はお店に入れなくなった。
新宿のお店に入ろうとしたとき
妙に胸の重さを感じた。
それを振り払うかのように店舗に入ると、
同じように重苦しさを感じた。

さすがにこれはおかしい。

そう感じた瞬間だった。

それと同時に、外の世界が怖くなった。
外に行けばどこかで過呼吸が起き、苦しまなければならない。
だったら家にいたい。
素直にそう感じた。
でも、仕事に行かなきゃいけないことも分かっている。
だから涙が止まらない。
欠勤連絡をする。

また、大量の涙を流した。
そして、それは電話口の園長と話すたびに大きくなっていった。

園長から「一緒に精神科受けに行こう」
そう誘われたのは、3日連続欠勤してからのことである。

2018年5月17日木曜日

過換気症候群で倒れた翌日、恐怖で涙を流す。

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昨日の過換気症候群の影響もなく
気持ちもスッキリ。

昨日休んじゃったから、
なんてこの状況をみんなに伝えようか、
そんなことを考えながら最寄り駅へ。

改札を通過。
電車を待つ。
電車到着。
乗車。
ありがたいのは、都心に向かうのとは逆、
下りの電車のため、
座れはしないけど、圧迫感はない。

でも、数分で緊張する。
というよりも全身がこわばる。
一番感じるのは頬。
頬の筋肉がひきつる。

ほぼ同時に、心臓の音が大きくなる。
汗をかく。
呼吸が荒くなる。
焦る。
瞬時に昨日を思い出す。
焦る。
また、あの苦しさを味わいたくない。
嫌だ。

地下鉄のため
すぐに次の駅へ。

急いで降りた。
呼吸はすでにコントロール不能・
駅のホームに這いつくばる。

混んでいなくても、
ホームは通勤のお客様でごった返す。

そんな時に駅員が来た。

自分の業務を続けながら、応援を呼ぶ。
すぐに違う駅員さん。
ここは危ないのでとホーム中央に移動させてくれる。
呼吸は荒い。
手もしびれる。
でも、昨日よりはいい。
でも、電車が怖い。
私は泣いていた。
声は出さず、小さく泣いていた。

すると駅員さんが、
もし救急車を呼ぶほどでもなさそうなら
駅事務所で休んでいかれますか、
と声をかけてくれた。
実際にそういう方も多くいるらしい。
多くいるという現実に甘え、
駅事務所で休むことになって。

誰も私に構う人はいない。
パーテーションで区切られた
まるで保健室のようなベッドに寝転がった。

あっ、電話してない。
職場への連絡をしていないことに焦った私は、
失礼ながら寝たまま電話連絡した。

園長先生がまた心配してくれた。
そして、駅まで迎えに来てくれるという。
申し訳なさ過ぎて、やっぱり涙が出た。
本日2度目。

数日前まで普通だった私が、
救急車に乗り、電車を怖がる。
あとで分かるのだが、これが広場恐怖というものらしい。

とにかく、普通の電車が、
硬くてでかくて、とてつもなく怖いものに見えた。
初めてだった。

2018年5月16日水曜日

初めて体験した日~過換気症候群~

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ある総合病院への搬送が決まりました。
救急車が動き出します。
でも、サイレンはなりません。
ゆっくりと走行を続けます。

救急隊員の方は、死ぬことはないよと優しく語りかけ
体内の酸素濃度などを測っていました。

病院へはストレッチャーで運ばれました。
周りの視線が集まる正面玄関から入っていきました。

その頃には、意識もはっきりし、
軽い痺れを感じる程度に
急激に体調が回復していました。

正直、自分で病院に担ぎ込まれておきながら
みんな大騒ぎしないでと勝手な思いを持っていました。

医師の診断も数分。
「過換気症候群」
急激な緊張状態により呼吸が浅く早くなり、
正常な呼吸、いわゆるガス交換が行われない症状だそう。

おぉ~、これを過呼吸ってみんな言ってたんだと、
この時初めて知りました。
なぜか女性に症状の出ることが多く、
基本的にこの症状で死ぬことはないこと、
でも苦しかったよねとお話してくださり、
また症状が出るかもしれないことを教えてもらいました。

そして、このとき先生が、
「いままで精神科や神経科に罹ったことはありますか?」
と質問され、当時の私としては理解不能な質問でしたが
「ないです。」
と答えました。

たぶん先生の中には、
いくつかの診断名が挙がっていたのかもしれません。

この日は自宅で安静にするように言われ帰宅しました。
ここで、初めて勤務先に連絡していないことに気付き
急いでTEL。
怒られると思いましたが、
凄く心配してくれて、
電話なのに安心したのか泣いてしまったのを今でも覚えています。

帰りは母に迎えに来てもらい一緒に電車に乗って帰りました。
不思議とその時は症状は出ませんでした。

でも、この日から私は「過呼吸」とお付き合いすることになります。

初めて倒れた日~過呼吸~

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社会人5年目の秋。
特に大きな問題を抱えることなく
毎日を順調に過ごしていたある日、
現在の私、双極性障害へとつながる症状が起こりました。

それは、電車内での過呼吸です。
その時は、過呼吸になったことなどなく
初めての経験だったため、
徐々に呼吸が荒くなり、
耳の中に膜が張られたように
周りの音がだんだんと遠くに聞こえてきました。
意識がもうろうとしてくる中、
心臓や頭、首、股関節の脈だけが
ドクンドクンと大きく聞こえ
それがどんどん早くなっていきます。

手足の末端はしびれ、
舌の先もしびれました。
電車内で座席の前でも構わず床に崩れ落ち、
涙を流しながら、死にそうと叫びました。

周りの乗客は、その姿に一瞬戸惑い
少し間を開けて近づき
介抱してくれていたのを覚えています。

次の駅で、駅員さんが待ち構えてくれて、
でも、駅員さんは慣れたもので
驚きもせず、淡々と対応してくれています。
その間、私は息苦しさは変わらず助けてと叫び
よだれを垂らしています。

でも、駅員さんは大丈夫だよと優しく声をかけてくれました。
そして、私は初めて救急車に乗りました。

私が誰なのか、いつから体調が悪いのか、
呼吸が整わない中必死で答えました。
なかなか、救急車は動きません。
行き先がどこもいっぱいでなかなか見つからないとのこと。
でも、過呼吸だから大丈夫と救急隊員の方に声をかけられ、
私は過呼吸って何っと一人頭で繰り返していたのを覚えています。

私という人~公務員~

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私が大学を卒業して勤めたのが
公立の幼稚園。

私は、幼稚園教諭となりました。
その頃から保育園は定員いっぱいの時代、
幼稚園はある一定の私立に人が流れ
公立幼稚園は定員割れの多い地域でした。

そんな状況なので、
逆に教員の数は減らされ、
1年目の私はクラス担任となりました。

もちろん、志を持って始めた幼稚園教諭。
何でもやり切ろうと必死に先輩についていきました。

1年目、クラスにも恵まれ
毎日とても充実した仕事を行えました。

公立の教員は、初任者研修というものがあり、
しょっちゅう現場を離れ
様々な研修を受けます。
教材の研究から法律、社会人として身に着けることなど。
それに合わせ、レポートの提出や集団指導の研究発表なども行いました。

でも、どれも初めて行うこと。
すんなりは行きません。
それでも、調べたり、聞いたり、
コツコツと進めることは好きだったので
本当に苦しんだかと言えば
それほどでもありませんでした。

1年を終えたときの周りからの評価は
1年目にしてはよくできている、
保護者からもあの先生でよかったと言ってもらえる
そんな楽しい1年でした。

それから、4年間とくに大きな問題はなく
順調にキャリアアップを続けてきたと思います。

あの日が来るまでは・・・

2018年5月14日月曜日

私という人~大学生~

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大学は付属の大学に入りました。
それなりに内部での競争は激しかったですが、
外部の試験に比べれば
格段に希望が通りやすかったと思います。

大学に入り、サークルにも入りました。

しかし、友達は少なかったです。
なぜなら、高校の部活を中途半端に終え
その仲間がいる大学で伸び伸びはできなかった。

周りの目が怖く、
自分に自信もなかったので、
授業や必要に応じて会話はするけど
自分自身のことや世の中のことを
腹を割って話すような大学生活は
私にとっておとぎ話のような世界でした。

でも、だからと言って授業を休んだりはせず、
単位も落とすことなく卒業することができました。
その間、ゼミの仲間ともそこそこに楽しみ、
資格も取って、公務員の採用試験も受かることができました。

その当時はまだ社会全体が不景気で採用難だったころ
当時の倍率で100倍を超える採用試験に一発で受かりました。

新卒新採の女性はほぼ私だけ。
それくらい奇跡的でした。

ちなみに、公務員試験の勉強は2年生から始め
1日1時間程度毎日やることを日課としていました。
対策用の学校には行かず、独学でした。

両親はもちろん、みんなが祝福してくれました。
私は、周りに落ちた方がたくさんいたので、
喜びは自分自身にとどめ、
なるべく、なるべく平静を装いました。

私という人~高校生~

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高校生になり、部活に一段と熱を入れます。
いわゆる自由な高校生活はなく
朝から晩まで競技漬け。

でも、ここで人生初めて「壁」にぶつかります。
強豪校だったので、まず部活で特別な存在にはなれません。
どんなに練習をしても全国トップの人にかないません。

さらに、先輩後輩の関係が厳しく、
始発で学校へ行き、帰りは終電近くで帰ります。
先輩へはどんなに遠くても挨拶、
先輩の後輩への可愛がりはしょっちゅう。。。

いままでぬるま湯だった私には衝撃的で、
ここから何だか自分の人生を悲観するようになりました。

部活は幽霊部員に近くなり、
でも性格的にはじけることができず、
勉強に真面目に取り組む高校生。


大学へは内部進学で。
学部選びは、まじめに勉強して枠を勝ち取り
人気の高い学科へと進学しました。

私という人~中学生~

中学校に入学すると陸上部に入りました。
もともと、バスケットボールも好きだった私。
でも結局は友達との関係で陸上部に。

同じ学年の生徒も増えた関係で
あんまり前には出なくなった中学生時代。

でも、運動会だけは女子なのに
男子並みに足が速かったのもあって
凄く注目を浴びました。

勉強は常に10番前後。
手抜きができない性格で
テスト一週間前にはお腹が痛くなるくらい緊張。
3年間必死に勉強しました。

部活でも表彰をたくさんされるくらいになり、
進路は私立へ。
部活が強かったけど、
あえて部活推薦ではいかずに、
一般受験をしました。

合格に関しては、部活がどのように評価されたか分からないけど
自分の第一希望のところへ進学することができました。

恋愛も初めて手をつないだり、
失恋したり。

人生の中で一番自分を出せた楽しい時間だったかもしれません。

私という人~小学生まで~

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私は東京都に生まれました。
昭和50年代生まれの30代。
団地住まいのごくごく一般的な家庭で育ちました。

幼稚園ではトランポリンが大好きで
活発な友達と一緒に
幼稚園の脱走を企てる
やんちゃな女の子でした。

小学校に入ってもやんちゃさは変わらず、
集合写真では足を広げちゃうような女の子。

でも、毎年、運動会ではリレーの選手。
基本的にはスポーツのできる女の子。
学級委員にもなりたくて、
いつも必死にクラス演説をしていました。

児童会では副会長になり、
その癖ものすごく緊張し屋さんで、
何かを発表するときにはよく眠れなくて
両親に泣きつきました。

勉強も塾に入っていなかったけれど
宿題なんかは忘れたくなくて、
毎日きちんと計画を立ててやるタイプ。
そのお陰か、通知表に「もう少し」はついたことがない子。

好きな子はクラスに2~3人いて
順位は常に入れ替わる。
だからといって、何か行動するわけじゃないけど、
宿泊行事などでは、女子でワーキャー盛り上がってました。

特別とは言わないけど
どちらかというと活発でやることはやるってタイプの女の子。
それが、小学校までの私です。